サイコパスは未来でもないと思った

神戸児童連続殺傷事件の犯人が遺族に断りもなく本を出版した。

内容は自己満足なもので読むに耐えないようだ。
まさに厨二病と評しているブログがあった。

この犯人はとても恵まれた時代と場所にいる。

時も違えば、場所も違えば、間違いなく命はないであろう。

サイコパスという漫画があって、漫画の世界では人々は常にどこにいてもモニターされていて、負の感情を持つと途端に逮捕されるか殺されててしまう。

未来なような設定だと思って読んでいたが、今回の犯人が本を出したことを考えていたら、漫画サイコパスは未来の設定ではないなぁとふと思った。

昔、16歳のカルテという映画を観た。

精神病棟に入院させられた少女達の話なのだが、親に性的虐待をされて最後に首をつってしまう女の子以外は多感な思春期の女の子そのもので、思春期の感覚が大きく残っていた当時の私はちょっと前のアメリカに産まれていたら、アンジーやウィナノ・ライダーのように当たり前のように精神病棟に入院させられていたんだ…と思ったことがある。

また時代が違えば魔女として処刑されていたかもしれない。

また場所が違えば今の時代であっても、今回の犯人はリンチされたりして死んでいるだろう。

これは誇張でもなく歴史の事実。

サイコパスは未来の話なんかじゃない。
予備軍として殺されることが今までもあったんだよね。

サイコパスのシステムは基準がぶれることなく数字としてきっちりと決められているのが未来的なだけで。

そう思うと今回の犯人がいる今の場はとても大人で未来的だ。

何が彼を生かしているのか。

全部を知ることはできないけれど、彼を生かしているものはとても未来的だ。
それが良いシステムか悪いシステムかはわからない。

ただ基本的な直感的な感情だけで生かせているのではないのだろうとは思う。
閉じ込めた方が、殺した方が社会的に楽だもん。

遺族たちは犯人が死んでも死ななくても、気持ちが満たされることはないと思う。

また、死刑制度があってもこういう犯罪は抑止力にはならない。

彼は自分が生かされていることの意味に気付く日はくるのだろうか。